Jane Donnerの見た、ミレクールのヴァイオリン製作の栄えた時代

翻訳 東京ヴァイオリン製作学校 佐々木朗

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 ミレクールというと、ほとんどの演奏家達は、いい加減な材料や、Stradivariのラベルを貼ったヴァイオリンを作った製作学校を思い付くだろう。これらの事は300年のミレクールのヴァイオリン製作の歴史のごく短い”工場生産の時代”に行われた事であり、現在のミレクールは一般的に誉め称えられている。あの時代の影をいつまでも引きずって行くのか、そしてヴァイオリンや弓を作った600もの工房の過去と未来はどうなのであろうか。

 ミレクールに来た者達は、たとえこの地について知らなくても、フランスのヴォージュ地方のこの小さな町の特産品かヴァイオリンであるという事はすぐにわかった。花屋は作りかけのチェロの枠につるを絡ませ、菓子屋はディスプレーに美しい複雑な氷のヴァイオリンを使った。銀行ではヴァイオリンの型やヴァイオリンを色々な処に付けたり、ウィンドウディスプレーに便った。市場ではドアの取っ手の板がヴァイオリンの形に削られ、”ヴァイオリン製作者Rotisserie”と書かれたものもあちこちで見られた。
 これらは初めてミレクールに来た訪問者達に、「絹はランカシャー」というように、「ヴァイオリンならばミレクール」という事を告げるのである。しかし、回転紡績機の音か聞こえ、そしてまた新しい発明が沈黙を破るようになると、ミレクールのヴァイオリン工業はその扉を閉める事になるのであった。Cousenon,Mangenot, Thibouville-Lamy,Laberte,Collin-Mezin,Bazinその他の製作家達の工房では最盛期には、多くの村々の家族と総出で一日あたり300〜400挺ものヴァイオリンが作られたが、それも終わりとなった。この出来事は思ったよりも最近の事で、産業の沈滞は1950〜1970年に渡って続いた(Thibouville-Lamyは現在ロンドンで細々と輸出会社を営んでいる)。ミレクールの衰退はドイツ、チェコ・スロヴァキア、東欧諸国との競争にあったのだ。ミレクールは一度死んだが、しかしその歴史にピリオードを打ったわけではなかった。−いや、それか始まりだったのである。

 ミレクールを3つの時代に分けると、最初は17〜18世紀、職人達がヴァイオリンの製作学校を始めた事、次は19〜20世紀初頭にかけて工場生産の時代を築いた事。そして3番目は現在であるが、再び小さな工房に戻り、若い職人達が大量生産との共存を試みているという事である。
 ミレクールはLorraine公領として発達し、彼の城が近くにあった。そこの宮廷では、夏になると音楽会などが催され、音楽家達やヴァイオリン製作家達が招かれた。その中にイタリアのクレモナでAndrea Amatiに学んだTywersusがいたのだ。彼はクレモナで学んだ事を、彼の弟子達に伝えた。その弟子の中に、ヴァイオリン製作家として最初に知れ渡ることになるDieudonne Montfortがいた。−1602年の事である。彼はとても有力な人物で、町の町長にもなったほどの人である。彼がかの有名なDieudonne一族の祖先であるかどうかは不確かであるか、私にはそう思える。次のような偉大な名前もミレクールから始まったのだ。-Chappuy,Chanot,Henry,Jacqot,Lupot, Pecatte, Sartory,Trevillot, Vatelot, Voirin,Villaumeその他。ニューヨークのJacques Francaisの起源もミレクールのここであった。
 これらの中で最も有名な者達はパリの恥だと言われ続けてられてきた。例えば、Villaume家の35人の人々はミレクールで働いていたとして知られている。Jean‐Baptist Villaumeは1798年に生まれ、父親の元で働き、その後にパリのChanotの所へ勉強しに行ったのである(元々彼はミレクールの人であった)。彼は子供の頃から町ではとても有名で、特別な才能を持っていたのだ。名声のあるヴァイオリン製作家達は、彼らの息子達に期待していた。ミレクールはよく知られていたが、今一歩で、名声をあげるにはパリに行かなければならなかったのだ。その点、静かなフォスゲス地方のミレクールでは、一家の半分かヴァイオリンやチェロや弓を作っていたが、そこの物価の安さが都合良かった。そしてそこで作られた物は、完成品としてパリに送られ、パリの製品としてラベルが貼られたのである。この様な事に対してのミレクールの人々の憤慨は容易に想像できる。そういう訳で、パリに対しての競争意識が育っていったのだ。そしてそれはずっと続いていった。現在の若い製作家と、昔とそれとのパリに対する対抗意識の違いは、単調な修理の仕事や、ミレクールの復古に縛られていないという事である。それは彼らの力を新しい楽器作りに集中できるのだ。しかしミレクールの楽器には製作者の名前などいんちきな事が書かれたりした。あのHillさえもそのような事をし 、そのクレームがミレクールの楽器屋に来た。

 19世紀の半ばになるとミレクールは、ヴァイオリンの製作の地としてその名を高め、何千人もの人々が、10人かそれ以上労働者のいる工房で働いていた。ある工房では労働者を監視し、ある工房では競争させたりした。客には御機嫌をとり、注文は不思議なくらい来たのだ。製作家達はそれぞれをニックネームで呼び合っていた。Mougenotは背か低く、痩せていたのでQuinze Grammesと呼ばれていた。Mait1re Francois(Henleyの考える彼は、その町の最初の製作家である)。はLe Luppetierとして知られていた。1612年の事である。L'Elastiqueは小さな楽器店を作り、そこの壁には溢れんばかりの楽器か掛けられていた。またLe Sous‐Prefet de Faubourg(郊外のSous一Prefet)やLe Roi de Rome(ローマのRoi),Le Beethoven, Le Teted'ailなどという製作家もいた。彼らの正体かいったい誰なのかは知る由もない。いくつかの実名のそれは、おもしろい、偽のそれと同じくらいに興味をそそる。18世紀末まで見習いとして過ごしたFrra11cois Va Ou T l Me Plait比についてももっとよく知る事かできないだろうか。

 ミレクールの分裂や競争は工業生産の時代を生き残る事ができなかった。その上さらにミレクールの仕事の水準は、たとえ町の製作家の最高指導者(3年ごとに選ばれた)か、水準以下の楽器店の工房を出る全ての楽器をチェックする事になっていたにもかかわらず、不安定であった。Henley著の「ヴァイオリンと弓製作者の為の辞書」の次の文章からもこの事は伺える。:「普通の二流クラスのミレクールの仕事」〜「一般に現在(1959年)のフランスの楽器が弱々しく、作りも雑という先入観があるが、これらの楽器は見て美しいだけではなく、弾いてみるとその良さがわかるのだ。」 les Lunedisにおいて、この様な習慣があった。−ある特別な月曜日の午後3時になると、製作者の責任者達は店を閉め、食事をとったり、ワインを飲んだりした。この事は社交的な儀式で、ヴァイオリン製作のいかなる組合の主張のためのもではなかった(現在のミレクールではそうなのだが)当時彼らはいったいどうやってLorraineにおける、支配人と労働者との権利の交渉や、仕事の規約を行ったのであろうか。

 ミレクールの小さな工房は、大規模な”工場生産”への方法として、非常に多くの様々な種類の弦楽器の製作学校を作りだした。Bazinは£1.50を中心として30p〜£14の価格帯の73種類の弓を作った。もちろんTourteモデルあり、Tubbsモデルありであった。それはおそらくHarrods, Army,Navystoreなどのイギリスの大きな店が好んだためであろう。Bazinは20〜30人の労働者を雇い、現在における工場という言葉は使わなかった。一方、Labert-Humbertは高い生産性を持ち、500人を雇い、彼らに基本的な仕事を与えた。彼らは12の項目からなる見習い期間を持ち、監視の元で楽器の全部分について教わり、その後にある部分の専門家として仕事が与えられた。−例えばZargen曲げの専門家として、Eckeの切断、Halsの取り付け等の専門家として。しかしこの様にしてできあがった製品は、とても人間的な物ではなかった。:かつてミレクールの主な特産品はレース編みで、そこで指の活発に動く女性達に目が向けられ、彼女達は競争をさせられるようになった。こうして女性達は第一次世界大戦後の工場に、外勤として大量に雇われるようになった。ある仕事が周りの村々の女性達に与えられると、白木のヴァイオリンは台所にまで吊り下げられるようになった。楽器は2000艇も一度にニスが塗られた(アルコールニスが用いられた)。しかしニスは少量すぎて効果はなく、この仕事も雑に一週間で行われたのだ。
 当時の工場は、現在の意味からいうと機械的なものではなかった。しかし彼らはヴァイオリンの表板や裏板のプレスに、本のブレスのように薄い板を曲げたり、今の大量生産と近い事をしていた。工場は、蒸気エンジンの可能性と共に、工業生産の時代を求めていった。しかし、写真に写っている労働者達がそれを望んでいたかは、また別な話であった。
 Thibouville-Lamyは大きな展示会で、ヴァイオリンに、4/-,8/-,16/‐と自信をもって書いた。それは「手工芸品よりも、機械を使ってやった物の方が良い。」という考えの現れであったのだ。しかし彼も、電気のそれの変化には対応しきれなかった。 あるA地点における輸出品のチェックの様子は、その土地の歴史を現している。1920年Laberteはロシアに3万挺のヴァイオリンを輸出した。近代的な機械化生産の中で、自らのぺースを守り、高水準の職人の仕事を追求していった人もいた。それは駒製作家のAubertである。その部品製造については、次の機会で述べる。

 ミレクールの工場生産の時代において、他の者よりも質の良い楽器を作ってきた者がいた。彼はCollin-Mezinで、彼のラインは、しばしば手工芸品よりも良い物を作るとして”芸術的ライン”と呼ばれた。腕のあまり良くない職人が作った部品でも、彼らのような腕の良い製作家達のヴァイオリンと一緒になると、一瞬に良くなってしまうのだ。彼は一週間もあれば、本当に良い物を作ってしまった。1890年にでたカタログを見ると、彼の製品は£37〜£125であった事がわかる。またComn-Mezinは1892年、英国王室における弓の権利か与えられ、それはイギリス人達さえも認めていた。彼はフランスの最初の女性製作家として知られているMade Mezinを彼の工房の家系から外した。Marie Mezinは1841年に、Collin家と結婚し、その両方の名前をとった工房を設立したのだった。

 ミレクールの歴史の3番目として現代があげられる。現在のミレクールには、以前に比べたら少ししか工房かない。しかしそれらは強い絆で結ばれた組合である。−18〜19世紀の職人達にはとてもできなかった事であるが。この絆はPR0MIFl(ミレクール楽器製造促進組合)として知られ、彼らの仕事の発展を助けるものである。現在のミレクールには4人の製作家と、2人の弓製作家と、3人の部品製作家がいる。そして最近小さな工場も建ち、発展の途中にある。それらは地方的な提携組織として、SOMIFI(ミレクール楽器製造会社)と呼ばれ、道具や機械を便いこなせる、優秀な生徒の育成につとめている。 Somifiは興味深い範囲の大きさのヴィオラを持っている。それは7種類のサイズで、33cmのハーフサイズから41cmの物までである。

 町には1970年からまた小さなヴァイオリン製作学校が始まった。この学校は、1880年以来ミレクールに住んでいるMorizot家の子孫の、Rene Morizotによって創立された。そしてその学校には、毎年5人の生徒が受け入れられる。彼らは学校で4年間、マイスターの下で5年間修行を積んで、はじめて自分自身のスタートラインに立つ事ができる。 その学校の最初の生徒の一人に、Gilles Duhaut元がいた。彼は弓製作家のOuchrdに師事し、その後パリの幾つかの楽器店で勉強し、ミレクールに戻り、大通り沿いの古いビルに自分の店を持った。彼はその小さな町を世界に広く轟かせたフランスの伝統的弓製作をしようと決意し、ミレクールに戻ってきたのだ。Duhautはかつてのフランス弓製作の栄光の衰えをよく嘆いた。ミレクールの学校では、弓製作の授業にそれほど力をいれているわけではないし、またフランスにも国家的な立場から弓製作を推進する国立の組織はなかった。フランスの伝統を活発に保つために、Duhautは、毎年一人ずつ彼のもとに呼び、3年間の修行をさせている。彼は主に、日本とドイツと取引をする。そして彼はブルガリアの弓製作のコンクールに参加する事で、彼の市場を拡大する事を考えている。彼の様な若い製作者にとって、コンクールで認められないと、今日を生き残る事は非常に困難なのだ。

 Gilles Duhautは、若い製作家達によって作られている新しい集まりの一員である。彼らの集まりでは、ミレクールと外との交友関係の改善に力をいれているのだ。「パリの人々は、まだミレクールを良く思っていない。」彼は言う。「あの工場生産時代の影響がまだ尾を引いている。これは我々とパリとの小さな戦争なのだ。」
 Jean-Jacques Pagesはパリとの関係についてもっと好意的である。「パリには膨大な数の修理店がある。だから客は来るが、自分自身の仕事が遅れてしまうのだ。ヴァイオリン製作家にとって、自分の楽器を作れない事は面白くない。それに比べてミレクールは客は少なく、ちょっと少なすぎるくらいだが、私は自分の新作作りに時間の80%を使える。そして残りの20%で修理をやっているのだ。パリでは逆だろう。」Pagesはミレクールからヴァイオリン製作の火が消えてから、この町にやって来た最初の製作家であった。彼はミッテンヴアルトで勉強し、それからミレクールに戻り、Eulryと数年を共にした。EulryはパリのEtienne Vatelotの下で、10年間修行を積んだ人である。Pagesはヴァイオリン製作における、フランス的な味を保つ事を痛切に感じている。彼はチェロやヴィオラもヴァイオリンと同じくらい作っている。また彼はオリジナルの楽器は製作しない。フランスの伝統的な形を好んでいるのだ。Pagesもまた毎年一人ずつ人を受け入れている。その何人かは学校から来た者だ。「私は彼らに色々な事を教えている。彼らは学校で週に20時間のヴァイオリン製作の授業を持つが、ここではその倍だ。もう学校が懐かしくなるくらいだろう。」 ミレクールの未来は希望が持てる。近年職人達はこの伝統ある町に戻り、労働組合もできてきた。その目的の一つが、若い製作家達に工房を与えたい、この事を政府に理解させる事なのである。若い製作者達を定住させたいのだ。公共の工房はスポンサーを持って成り立っている(通常それは銀行である)。ヴァイオリン製作の博物館は、旅行者や客に興味を持たせるために造られた。町では2年に一回の割合で、夏に弦楽器フェスティバルが催されるが、望む事なら多くの演奏家や観客に興味を持ってもらいたいものだ。

 ミレクールでは今でも昔の面影を見る事ができる。道を歩いていると、Rue Basse, Rue Lupotという通りがあったり、Town Hollにはヴァイオリンの模様の白いレースがあったり、花屋にはニスを塗っていないチェロの枠が花々に埋もれてまだあったりする。私には当たり前の光景であるか、あなたが出会ったこの町で働く若者達が、弦楽器やそのアクセサリーの生産地としてミレクールを変え、その名声を広げていくのだ。