マイスターのQ&A

ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

:ヴァイオリンは、どうして現代の科学をもってさえも解明できないのですか?

:ストラディヴァリ等の名器を含め、「ヴァイオリンは科学では解明できない」という話をよく聞きます。これについては肯定的な方、そして「ほんとうかな?」と、懐疑的な方の両極端に分れる事でしょう。どちらであるにせよ、色々な説や意見が存在し、更にそこに商業的な意味合いが混じり、混沌とした状況である事には間違いがありません。このような状況からは、ヴァイオリンを理性的に見つめる事ができなくなってしまいます。
 私も、ヴァイオリンの音響研究は、細々とですがライフワークとして続けたいと考えています。従ってこの内容についてはヴァイオリンの本質を考える上で非常に重要であり、私も常に考えるようにしています。
 さて、私がヴァイオリンの製作者として、そして科学を少しだけかじったことのある人間として、「ヴァイオリンと科学的研究」について述べてみましょう。

 ほんの100年前とは大きく異なり、現代の科学の進歩のすさまじさについては、今更私が詳しく述べる必要もないでしょう。例えば100年前のヴァイオリンの音響研究では、ヴァイオリンの響板に砂をまいて、それを振動させて響板の振動パターンを見たり、その周波数を調べたりという方法が一般的でした。しかし現代は測定機器の進歩によって、一瞬のうちに振動周波数を非常に細かく調べることができたり、またはコンピュータによって振動自体をシュミレート(まだ不完全ではありますが)したりすることができるようになりました。例えば私のもっているFFTアナライザでも、数Hzの精度でヴァイオリンの音響測定が可能です。この測定精度は、100年前の測定精度が子供のお遊びに思えてくるほどなのです。
 さて、それならばどうして現代の測定技術をもってしても、ヴァイオリンは科学的に解明できないと言われるでしょうか?その理由を項目ごとに書いてみましょう。

「良い音」の本質が無い
 ヴァイオリンを科学的に考察する上でもっとも重要となるものは、「モデル」です。すなわち「理想的なヴァイオリン」です。この為には「良い音」が定義されている必要がありますが、この部分は人間の感性によるところが大きいので、非常に難しい研究テーマなのです。すなわち、ヴァイオリンの研究をする上での土台自体が、すでに不透明になってしまっているわけです。
 しかし、このようなことを言っていてはヴァイオリンの研究はまったく進みません。そこでよく使われる方法として、「現在最高とされている楽器」をモデルとして研究が行われます。具体的にはストラディヴァリ等の名器自体の音を研究したり、またはその音をモデル(基準)とする方法なのです。しかし、ここにも大きな問題があります。それは例え素晴らしいストラディヴァリ級の名器とはいえども、それぞれの固体によって性格(音色等)がかなり異なっているということなのです。その上、調整(セッティング)によっても、驚くほど音色は変化します。これは、数少ない楽器しか取り扱ったことのない研究者にとってはピンとこないことでしょう。また、ストラディヴァリ等の楽器も、時間とともにその音色は変化します。
 さて、このようにヴァイオリンの研究を行う上で、もっとも重要な「基準」が不透明であるということを書きましたが、ヴァイオリンの研究自体が原理的に不可能と言っているわけではありません。例えば「個々のヴァイオリンについての考察」ならば矛盾はないわけです。しかし欲を出して、それを「ヴァイオリン一般論」にまで拡張してしまうと、多くの矛盾が吹き出してしまうのです。
 「良い音」や「人間の聴覚」についての研究は様々なところで行われています。しかし、派手さのない地道な研究を必要とします。一方(特に本質から外れている)ヴァイオリンの研究は派手さがあり、素人受けもよいものです。しかし前記のような地道な基礎研究無しには、ヴァイオリンの研究自体も成り立たないのです。残念ながら、ヴァイオリンを直接利用したこのような基礎研究について、私はほとんど聞いたことがありません。
木材の多様性
 この事については「技術レポート」のコーナーでも述べていますが、木材(天然材料)については深く考えれば考えるほど難しくなります。例えば、単純にヴァイオリン製作に使用される木材の質量だけをとっても、大きな開きがあるくらいなのです。
 木材は非常に複雑な要素を含んでいる割に、残念ながらそれを研究する人は少ないのです。これは木材(加工木材は別として)が現代の土木・建築などの主流の材料ではないので、どうしても化学素材の研究者ばかりが増えてしまうということはしょうがないことです。また、天然素材の研究は非常に難しいために、結果が出しにくく、研究テーマとして取り扱いたくないという面もあるのでしょう。事実、木材の「セルロースの結晶化」についていくつかの書籍を読んだのですが、そのデータのばらつきは随分と大きいのです。これは木材が、そのくらい研究の難しい対象とであるという一側面でしょう。
 似たようなことは「天然樹脂」についてもいえます。特に最近は研究者自体がいないのか、天然樹脂の研究書籍さえも入手困難です。
 このように、ヴァイオリンを構成する材料自体を説明できないということは、ヴァイオリンの標準モデルが不透明になり、それはすなわちヴァイオリンの一般論への考察を複雑にしているということなのです。もちろん、個々の木材についての測定は、現代の精密測定機器によって非常に詳しく測定することができます。しかし、例え分子レベルまで詳しく測定したとしても、それをヴァイオリン一般論へ発展できなければ、「ヴァイオリンの解明」とはならないのです(その全く逆の事も言えます。すなわち、わずか数本のヴァイオリンの研究から、一気に飛躍して「ヴァイオリンの一般論」にまで持って行くべきではないのです)。
構造の複雑さ
 「ヴァイオリンは非常に単純な構造をしているのに、そこから出る音はとても美しい」というような表現をよくされます。確かにヴァイオリンの構造は、無駄がなく、しかし美しい素晴らしいものです。強度(構造的な丈夫さ)的な意味でも感心する事ばかりです。
 しかし、いざ音響研究にとりかかってみると、ヴァイオリンの発音機構は想像していた以上に複雑なのです。なぜならば、一般的な楽器が振動板の「調和振動(加振による減衰振動)」であるのに対して、ヴァイオリンのそれは弓による強制振動だからなのです。このことが元となって、その振動板には隆起が生じ、また駒の複雑さや魂柱の使用など、非常に複雑な要素が入り組んでいます。
 例えば現代の測定技術をもってすれば、ある状態(例えば響板だけ)の測定は、高精度でできます。しかし、そのデータを次の状態(例えば胴体を組みあわせた場合)にそう簡単には応用できないのです。なぜならば、前記のような不確定な要素が多く存在するからです。さらに魂柱を立てる前後、ネックを付ける前後、アゴ当てや肩当て等の部品を付ける前後では・・・・など、考えるべき要素はいくらでもあります。
 従って、ヴァイオリンの研究の1つの方向として、例えば全てプラスティック等で作られたヴァイオリン(構造を簡略化した)で実験を行い、それを理論と照らし合わせるという試みも面白いと思います。この様な楽器は明らかに「ヴァイオリン」とは異なります。従って、その実験を行う勇気も必要ですが、私は、非常に重要な基礎実験だと思います。
発音方法の難しさ
 先でも述べましたように、ヴァイオリンの特徴は「弓による強制振動」です。例えばギターなど、一般的な楽器の音響実験(実際の発音実験)では、弦を何らかの機械で引っ張り離す事で、機械的に発音を行う事ができます。しかしヴァイオリンの場合にはその方法が更に複雑になります。弓の毛の質、松ヤニの状態、また微妙な圧力変化等によって、音は変わってくるからです。
 これまでにもヴァイオリンを常に一定に発音しようという目的で様々な方法が試みられてきました。例えば、一番単純な方法は、「自動弓動かし機」です。また、弓の代わりに円盤を回転させて、それで弦を振動させてやる方法。楽器にスピーカーを近づけて振動させる方法、または駒を直接加振する方法。発想を変えて、小さな鉄球を駒に瞬間的にぶつける事によって発音させる方法(タップトーン測定方法)など、様々な発音方法があります。これはそのくらいヴァイオリンを定量的に発音させて測定するという事が難しいという現れなのです。
ヴァイオリンの性能は4次元で考えるべき
 一般的に音響研究は、現時点におけるヴァイオリンを研究します。これを「3次元」として考えるならば、ヴァイオリンはさらに時間軸(過去からの流れと、未来に向かっての性能特性)を考慮した「4次元」として性能を考えなければなりません。この考え方は「音響研究」としては間違った考え方ですが、ヴァイオリンという楽器を考える上ではとても重要なのです。この事は私の書いた「楽器の性能とは」にて詳しく書いていますので、そちらを読んでください。
 試しに1つ命題を書いてみましょう。「今は最高のヴァイオリンだが、明日には壊れてしまうようなヴァイオリン。これは良いヴァイオリンなのか、そうでないのか?」この命題は非常に大切です。すなわち、時間軸を含んでいるのです。
 この様な考え方を考慮すると、ヴァイオリンの科学的な研究はさらに複雑になってきます。
ヴァイオリンの研究は不可能か?
 これまで述べてきましたように、ヴァイオリンの研究には様々な難しい要素が含まれていて、その研究無しには「解明」は不可能です。これは「生命」の研究にも似ています。「生命(脳なども含む)」は、現代の科学をもってしても解明されていないという事をよく聞きます。しかし、それは否定的な意味ではありません。研究が進むからこそ、謎も多く生まれているのです。
 ヴァイオリンの研究もまったく同じです。ヴァイオリンの研究の数だけ、ヴァイオリンの研究は確実に進歩しています。しかし「解明」というゴールを安直に口に出すべきではないでしょう。なぜならばそれはまだまだ先の話だからです。原理的には、ゴールは無いとさえもいえます。
 これは私の意見ですが、ヴァイオリンの研究において、誇張したような結論を出すべきではないと思います。例えば「ストラディヴァリの音色が解明!」等と発表すると、素人(またはマスコミ)受けはよいと思いますが、前記の「不確定性要素」が存在する事実を考慮すると、あまりにも現実離れしていると言ってもよいでしょう。また、そのように簡単に答えが出てしまうような楽器ならば、ここまで多くの人の魅力を引きつける事はないでしょう。
最後に
 ここまで、私はヴァイオリンの研究(解明)について一見否定的な内容を書いてきました。しかし、これはまったく逆なのです。先程も述べましたように、ヴァイオリンの研究は研究の数だけ確実に進歩しています。
 そして、これが大切なのですが、研究の進歩の分だけ疑問点、すなわち魅力も増しているわけです。これは私が実際に色々な思考錯誤をして、一番感じている事です。「ヴァイオリンを解明した」と言っているようでは、まだまだ程度の低い次元での議論でしかありません。
 最後に誤解の無いように付け加えておきます。それはヴァイオリンの研究だけが特別難しいといっているわけではないということです。ヴァイオリンの研究は確かにとっかかりは難しいです。しかし、そのほかの楽器の研究でも、非常に高度な研究レベルになればなるほど、どの楽器も同じくらいに難しくなる事でしょう。

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