マイスターのQ&A                

ドイツ・ヴァイオリン製作マイスター 佐々木朗

弓の毛替えの難しさ
 弓の毛替えは一番身近である反面、ほとんどの方がその作業を軽視しがちです。しかし、私は弓の毛替えこそが、最も番難しい「修理」の一つと考えています。以下、私の感じる問題点を書きます。

1・ユーザー側の意識の低さ
 毛替えは最も身近で、値段も安い修理です。ですから、ユーザー側としてはその重要性に気付かず、それを単なる「毛の交換」にしか思っていない人がほとんどなのです。しかし、「毛替え」とはれっきとした「修理」なのです。そしてその内容は、弓に対して良心的であればあるほど難しいものです。
2・何が難しいのか
 弓の毛替えは、ユーザー側から見て判別できるのはせいぜい「毛の量、質」や「毛の張り具合」でしょう。しかし、一番重要なのは見えない部分なのです。
 弓の毛替え作業の重要なポイントは、ユーザーの見えない部分にあります。ですから良い仕事と、悪い仕事の差はこの部分にこそ表れるのです。具体的に言えば、良心的技術者は弓を全く傷めないような注意深い作業をします。しかし、いい加減な技術者ですと、「その場限りの修理」をするのです。例えば、各部品を分解するときに、不注意に無理な力を掛けてしまって他の部分を傷めてしまったりする事はよくあり得ることです。その他にも、毛が抜けないように、クサビをボンドで接着してしまったり、またはきつめのクサビを打ち込んだり。またはクサビ穴をノミでゴリゴリと削ってしまったり・・・。
 「良心的毛替え」と「その場限りの毛替え」の違いは、残念ながらその時には簡単には判別できません。というのも、それは見えない部分に隠されているし、それに、ほんの些細なことだからです。しかしそのような作業を10年以上も続けていると、その違いは明らかに判ります。両者の弓の傷み具合はまるで違うでしょう。
 良心的作業を続けられた弓は良い状態を保っているので、正確な作業を施すことができます。しかし一方で「その場限りの毛替え作業」を続けられた弓は、毎回弓の健康状態が悪くなります、するとますます正確な毛替え作業が行いにくくなるのです。ですからまた、つじつま合わせでボンドなどによるその場限りの作業がなされてしまいます。これでは悪循環です。

3・毛替えの効果
 意外と思われるかもしれませんが、弓の毛はそう簡単に摩耗するものではありません。毎日演奏するプロの演奏家ならいざ知らず、アマチュア演奏者の場合には、純粋に毛の摩耗具合だけならば1年以上の使用には全く問題ありません。それでは、毛替えをする意図はどこに見受けられるのでしょうか?それは簡単に言えば「毛の量」、「毛のバランス(全ての毛が均等の張力か)」、「毛の状態(摩耗、汚れ)」です。これらはもうすでにご存じのことと思います。しかし毛替えには、その他にも次の二つの大きなメリットがあります。
*定期健康診断
 毛替えのため、工房に定期的に通うことによって、弓、楽器の他のトラブルを指摘してもらえます。これは非常に重要なことです。楽器も弓も、人間の病気と同じで、早期発見すれば比較的簡単に直る(修理)ものです。しかし、ユーザーがトラブルに気付いたときには、その症状はずいぶんと悪化している場合がほとんどです。ですから、自分が気付かないときにこそ、トラブルを指摘してもらうべきなのです。これは人間の場合の「定期健康診断」と全く同じ意味です。
*毛の伸び
 毛替えを長い間していないと、弓の毛が伸びていることがほとんどです(大体は5〜10mm伸びています)。その様な場合は、ネジをずいぶん回して、フロッシュをずいぶんと後ろにずらして弾くことになるでしょう。すなわち、重心の位置が標準よりも大幅にずれているのです。従ってきちんとした「毛の張り」に直すことで、弓のバランスは元に戻るのです。
 毛替えの後、弓の毛がきちんとした長さに直って、「これが自分の弓とは思えない!」という人も、ずいぶんといるものですよ。

4・毛替えの周期
 これは最も多い質問です。結論から申しますと、こうといった答えはありません。プロの演奏家など、よく弾く人は2ヶ月くらいで交換する人も多いです。一方無頓着な人は、3年間も毛替えしなくてもその必然性は感じないでしょう。
 私がお勧めしたいのは、最低でも1年に一度の毛替えです。というのは、「毛の磨耗」については、その人が良かれと思えば、例え5年でも使ってよいのですが、「毛の伸び」や「工房でのアドバイス」という面から、最低でも1年に一度は工房に行ってほしいのです。できれば半年に一度は行きたいところです。というのは、日本の場合には「多湿度期」と「乾燥期」に分けられ、そのときによって毛の伸び具合もずいぶんと違うからです。

5・よい技術者とは
 私がお願いしたいことがあります。それは修理の本質を理解してほしいのです。例えば、ユーザー側は「この前毛替えしたばかりなのに、もうクサビが取れてしまった」ということを言います。しかし私に言わせれば、クサビが取れないように接着してしまうよりは、クサビが取れてしまった方がはるかに良心的な作業なのだと・・・。もちろん、そのようなトラブルが無いにこしたことはありませんが、「完璧な作業」というのはあり得ません。私達技術者ができることは、最善を尽くすだけなのです。例えば、良心的な作業をしたつもりで、例えばクサビが抜け落ちたときに、「あそこはへたくそだ!」と言われてしまうのはとてもこたえるのです。ですから、とりあえず初期トラブルの起きにくい「その場限りの修理」に走ってしまう技術者も多いのです。
 私が考える良い技術者とは、楽器を傷めない人だと思います。その違いはその場では判らなくても、長い間に徐々に、しかし大きく(重大に)現れるでしょう。ですから、ユーザー側としてはその技術者の「基本方針」に目を向けるべきと思うのです。それは毛替えなど、基本的な修理において特に顕著に現れるでしょう。
 さて次に、ユーザーの側にしてみたら、「目には見えないところの技術差」をどうやって確認したらよいものなのかが気になるところかと思います。それはもっともなことです。
 答えから申しますと、具体的な技術差を一回限りの毛替え作業にて判別することはできないでしょう。それではユーザーは技術者の「技術」を見分けるためにはどうしたらよいのでしょうか?私の答えは、工房(楽器店)に通うときに、毎回5分間だけでも技術者と話をして、そしてその技術者の「人間性」を理解することこそ、技術力を判断する一番の近道と確信しています。良い仕事をするためには、口先だけではなく「一貫性」や「信念」などが必要であり、よい技術者からは必然的にそのような気持ちが感じ取れるからです。ですから、工房(楽器店)に弓だけをただ単に預けて帰ってしまうということはもったいないことです。
 また、良い仕事をしてもらうためには、技術者に余裕を与えるということは重要です。作業時間に余裕がない場合に、もしも予期せぬトラブルが起きたら技術者は焦ってしまい、その場限りの「つじつま合わせの修理」をしてしまいます。ですから弓の毛替えの時に、「隣で待っているので、その間にお願いします」なんてことは言わない方がよいと思います。
 私の工房では、最低でも一晩は預かります。これは、別にそれだけ多くの時間を使っているからではなく、トラブルがあったときに、冷静に行動できる余裕を自分に与えるためです。またその他にも、毛を自然乾燥させて、正確な毛の縮み具合を確認するという大切な意味もあります。毛が生乾きのまま手渡したのでは、その後の毛の状態を確信できませんし、また逆にドライヤーなどで強制乾燥した場合には、毛が必要以上に乾燥しすぎて縮みすぎているということもあり得ます。

 最後にくどいようですがお断りしておきます。それは短時間で毛替えをする楽器店=下手な店。ということは絶対ないので、注意してください。速くて、そして上手ければそんなに素晴らしいことはないのです。逆に、「うちでは・・・・こんなに時間をかけて・・・」と、能書きばかりで、下手な技術者もいることでしょう。

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